3つの宝箱(あるいは思い出という名の公園)

私にとっての3つの宝物といえるプロレス・映画・学生時代の思い出や、日々の雑感を語るブログです。

スターウォーズで感じた違和感

 今回は映画についての話です。SF映画の金字塔「スターウォーズ」について書かせていただきます。

ジョージルーカスによるこのシリーズは、全世界で知らない人がいないぐらいの有名な作品です。魅力的なキャラクターと素晴らしい特撮技術によるこの壮大なスペースオペラは全9部作で構成されています。

最初に私がスターウォーズを見たのは中学1年の時でした。後に「スターウォーズ4」という位置づけになる「新たなる希望」を映画館で見て、そのスケールの大きさに圧倒されました。特撮もストーリーも音楽もとにかく、失礼ながら日本の特撮映画が太刀打ちできないレベルの完成度だなと強く思ったものでした。

それ以降「スターウォーズ」シリーズは、必ず新作が出るたびに劇場に足を運んだものでした。毎回期待を裏切ることなく、空想の世界にどっぷりとつからせてくれるスターウォーズは、私をとりこにし続けたものでした。 そんなスターウォーズシリーズの中で、何回か違和感を感じたことがあります。

その違和感というのは、おそらくアメリカ人と日本人の感性に起因するものだと思われます。あるいはジョージルーカスと日本人の感性の違いなのかもしれません。 具体的には今から説明しますが、我々日本人と違ってスターウォーズでは人と人との別れが淡泊に描写されることがあります。

その一つが「エピソート1ファントムメナス」での一場面です。

砂の惑星タトウイーンでジェダイマスターのクワイガンが、アナキンスカイウオーカー(後のダースベイダ-)に出会います。アナキンの潜在的なフォースの能力の高さを知ったクワイガンは、アナキンをジェダイにするべく連れて行こうと考えるのですが、一つ問題があります。

アナキンはその母親共々ワトーというジャンク商人の奴隷になっているのです。そのためそのままアナキンを連れて行くことが出来ないのです。

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そこでクワイガンはワトーと賭をします。アナキンをポットレースに出場させ、アナキンが勝てばアナキンを奴隷から解放すると言う条件を取り付けます。

 私が違和感を感じたのはこの賭の交渉をする時の場面です。クワイガンは当初ワトーに

「レースに勝てば親子二人を奴隷から解放しろ。」と交渉しますが、ワトーは「二人はだめだ、一人だけ。」と答えます。

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それに対してクワイガンは実にあっさりと「ではアナキンを」とその条件を受け入れます。

この場面を映画館で見ていた私は、クワイガンのあまりの淡泊さに吹き出しそうになってしまったほどでした。恐らく日本人の感性であれば、親子の別れという重大な選択に迫られた時に、凄く葛藤し、やむを得ずアナキンだけを選ぶという、その心理描写を必ず描くと思います。しかしそれが一切ありませんでした。そこに何かアメリカ人というかルーカス個人なのか分かりませんが、感性の違いを感じそのことが凄く違和感として見終わった後も残ったものです。


同様な違和感は「エピソート6ジェダイの帰還」でも感じたことがあります。ルークを助けるために皇帝を倒したダースベイダ-は、ルークにマスクを取ってくれと懇願します。それまでの戦いで瀕死の状態になっているベイダ-が最後にマスクを取って、自分の肉眼でルークのその顔を見たいという思いで発した言葉です。

それに対しルークは「マスクを取ったら死にますよ。」と淡々と答えるのです。

確かにベイダ-のマスクは呼吸を補助する生命維持装置なので、その通りなのですが(そんなにあっさり言う?)と、この時も思ったものでした。

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父の最後の願いとしてそれを受け入れるのは分かるのですが、そこに至るまでの心理的葛藤が一切描かれないことに違和感を覚えたのです。

今になって思うのは、ルーカスはスターウォーズという冒険活劇に浪花節的な別れのウエットな描写をしなかったのかなと感じます。万人が楽しめる映画として考えた時にそれを必要ないと判断したのでしょう。

ただ日本人の感性で考えるとそこに少し違和感を感じてしまうのは、否めないのかなと思います。まあこれは私だけの感じ方かもしれませんが。いずれにしてもスターウォーズが素晴らしいスペースオペラであることに変わりはありません。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。